ミルクティーと踊りたい

とある大学生の無知・無能力が証明されていくブログ

感情の揺れがすごいよね。というお話

例えば、殺人者がいたとき。

 

世に数多いる「倫理の人々」は、彼らに怒りを覚え、被害者に哀れみを覚え、なぜこんな怪物が存在するのか、早く死刑になれ、なぜ生かしておくのか、などと声高に叫ぶ。

 

殺人事件が起きればニュースやtwitterでは大騒ぎ。

 

 

え、うそでしょ?

 

本当に怒っているのかしら。本当に悲しんでいるのかしら。

 

感覚的ではあるけれど、こんなに多くの人が、「倫理の人」なはずがないと思う。

間隔が、加害者や被害者との間に存在するはずの彼らや私が、自らのことのように怒り悲しむことなんてできないはず。

 

家族や友人の痛みにも、寄り添うことは難しいのに。

共感できることは少ないのに。

 

 

多分みんな、フリなんだ。

怒っているフリ。悲しんでいるフリ。

 

そうすべきである、と社会が求めるから、素直で疑り深くない人々は、自分が奥底からそのように感じているのだと、錯覚してしまうのだと思う。

 

 

途中だけど面倒くさくなっちゃったからupする、後で直すと思う

はじめに

平均寿命が伸びている。

 

それを望む人が多くいるということだ。

あるいは、過去にはそう望んだ人が多くいて、その惰性によって続いているということもあるのだろう。

 

でも、長生きを望む人なんて、今の世の中でいるのだろうか。

できる限り長く生き続けたいなんて、本心からそんなことを望む人が一体どこにいるのか。

 

 

つまり、長生きしたい人の比率は、過去と比べて今では激減したのではないか、と仮説を立てることができる。

 

この仮説は、もしかしたらそういう調査があって統計が残っているのであれば検証可能だけれども、今はそれを探すのが面倒くさい。

さらに、そもそもこの命題は、これから考えることの出発点に過ぎないのであって、そこに厳密な正しさは必要はない。

この仮説を念頭において、以下考察を進める。

 

 

(生きるうえでの)充実感=寿命÷(その時間ごとの)幸せ

過去の人々は、寿命が伸びれば、幸せの総量が増えていくだろうと思っていたのかもしれない。

それほどまでに、幸福に生きていたのだ。

 

現在、人々が不幸だと感じるのは、寿命が延びたことが原因にあるように思う。

 

すなわち、命が短かったからこそ、充実感をともって生きていくことができたのだ。

 

 

天賦の才

 

運動能力や脳に関わる能力など、身体的なものに関しては遺伝による影響があると思う。

 

これに関しては「天賦の」才という表現も正しいのかもしれない。

 

しかし、多くの「才能」と呼ばれるものは、後天的なものであると考える。

 

すなわち、環境が天才を作るということ。

 

そして、その環境というのは、周囲が強制して作るべきではない。

 

なぜなら、自ら選んだまたはその道を選んで良かったと当人が感じられない限り、それは不幸なことであったと感じてしまうだろうから。

 

無意識に構造を作るというのが、一番いい方法なのではないだろうか。

 

 

また、「それしかできない」から、不幸になってでもそれをやるしかない、というタイプの天才もいると考えられる。

 

これは、作られた環境が偏っていたために、他のことをできなかったということに過ぎないように思う。

 

結局は、触れた時間、かけた時間と、それに注ぎ込んだ集中の度合いで判断されるのであろう。

 

その意味で、「熱中」できるというのは最大の天才への近道だ。

呪われる、憑かれるとも言える。

 

人がある程度成長し、その後に夢中になれるものを探すという場合、環境等により嗜好がすでに出来上がってしまっている。

 

そうすると、出会うものが夢中になれるものである確率は下がるし、なにより雑音が増える。

 

すなわち「生活の維持」や「生存の確保」、「他者の視線」などだ。

 

そして、身体的に脳の老化(成長)による吸収力の低下という要素もある。

そのため、やはり幼い方が集中の質は高いだろう。

 

歳をとってから始めたもので天才になることは難しいとうのは、このような構造によると思う。

 

しかし、もちろん例外もある。

「始める」前に触れていた場合や、対象が身体性とは乖離したものである場合、皆が歳を経てから始めるであろう場合などは、天才になりやすい。

 

 

また、おもしろいのは、野球という競技ができる前には「野球の天才」など存在しなかったということである。

 

これは示唆に富む事実であろう。

 

天賦の才など、基本的にはないということだ。

夢中になれるものがあれば、突き詰める。

人間性を捧げる。

 

そうすれば後から「天才」だったと呼ばれるようになろう。

殺されそうなとき

自分が殺されそうになっているから分かる。

 

私の場合は、自分に殺されかけている。

私はそれでもいいのだ。

既に死んでいるし今だって死んでいる。

 

一方で生かされているし、救われている。

人に、その言葉に。

 

一番近い人。

身近な人。

どっかの塾長。

イヤホンの向こうの人。

Twitterの向こうの人。

 

自分もそんな人になりたい。

 

まず、

最低限の居場所を作る。生きられる場所。

 

そして、

 

一歩進んで、

みんなが生き生きとできるよう、世界を変えたい。

 

 

こんな不条理な世界は壊したい。

 

 

 

 

今考えている具体的な方策はこうだ。

 

まず、人に寄り添える人間になる。精神のそばに。

 

次に、心に寄り添うだけでなく、具体的に何かを行使するための実力をつける。精神+現実での助け。

同時に、雇用される側でなく雇用する側になる。上と関連するが、こちらは金銭的に生活を支える意味合いに加えて、居場所を提供する意味でもある。

 

そして、日本を変える。選択肢を作る。

具体的には、相続税を8割にすることを考えている。社会主義とは違う。縁や精神を引き継ぐのは良いだろう。しかし金銭まで多く引き継いで、本人の力によらずに家の力で甘い汁だけ吸うようなことを許していいのか。

今は完全にその悪い部分が出ていると思う。

吉田茂の子孫だ、岸信介の子孫だ、天皇家に繋がる血筋だ、旧華族だ。

そしてそのお友だちや阿る者は出世して金銭を得て資格を得て。

これが正しい世界なはずがない。

 

完全に職能を分離して生産性をあげようというポリシーならそれはそれでよいと思う。

しかし、庶民には苦しみを強い、発言を奪い、人権すら奪われ始めている。

これは実態として存在している。

 

日本人だというだけで優れているという選民思想は蔓延を始め、権力への迎合によるあからさまな出世。

真実は書き換えられる。

批判的な発言は暗黙のうちに封じられ始めている。

 

始まりは無関心からだった。

 

これくらいならまだ大丈夫という慢心からだった。

 

歴史というものがもし過去に存在した出来事だったとするならば、

また同じことは繰り返れる。

 

 

そのとき、これを変えうる力に、

 

私はなる。

生存は目的じゃなく結果にすぎない

はじめに

こう言うと極めて陳腐と言うか クソみたいな自己啓発に見えるけど そういうことではない。

これからその真意を示す。

 

よく語られること

進化論について よく誤解している人がいるのではないか。

すなわち、生き残るために 我々あるいはあらゆる種は 様々な能力を手に入れたというものである。

 

これは大きな誤解だ。

形質は後天的には変えられないから 我々がいいと思って能力を開発したとしてもそれが後世に 伝わっていくということはない。

 

 つまり 進化論とは 突然変異の結果によって たまたまたまたま比較的生き残りやすい機能を備えた個体が、 その機能を遺伝させることで、結果としてその種が今まで(あるいは長年)存続してきた にすぎない。

 

すなわち 生き残るために 生物が ある機能を備えた のではなく ある機能をたまたま備えた結果として 生き残ったにすぎないのである。

 

生存は価値中立的

これは私たちの概念にも大きな影響を与えている。

多くの人は「生存」が善であることを当然の前提としている。

 

それが故に上記のような誤解も抱くのである。

 

別に死んだっていいのだ。

 

種の保存の欲求や行きたいという願望は そのように思っていた生物が たまたま生き残り安かっただけであって そしてその結果生き残ってきただけだって 生存そのものには本来 プラスマイナスの価値はない(分からない)

 

今我々が そのような 生存を前とする ことを前提とする 主のみいが 生き残った 世界にいるから そこに意味があると考えてしまっているだけである

 

ある意味「構造」の上に立っているだけと言えるのはないか。

 

種々の道徳・価値観は崩壊する

このような思考を前提とすると 様々な 道徳 価値観が崩壊していく

例えば その欲求に従って 性行為がしたいと性行為がしたいと感じ、行った結果 妊娠し それを下ろしたとしてもそれは何ら咎め立てされることではないのではないか。

 

性行為を行いたいと思わない個体に対しても、それによって種が破壊されるから認めるべきではないという反駁は 、なんら意味をなさないのである。

なぜなら前提が異なるからだ。

 

あるいは、攻め込まれた時に 自衛もせず 滅ぶという主張に対して愚かだと一蹴するのは、それの方がむしろ愚かなことのように感じられる。

それはその個人にとっては 種を残すということよりも 自らの決めた 価値に邁進する方が より優先度が高いということだからである。

その判断は誤りとする根拠はない。

 

これに対して 平和ボケと馬鹿にする人に対しては、努力せずとも生きられる世界だからこそ、その生存そのものについてを一段掘り進めて 根本を 疑うことができている のであるから むしろ 平和賢者 であると主張したいくらいだ。

 

 

この本のおかげです。

しんどかった

最近、とてもしんどかったんです。

つらかった。

 

本を読みました

一冊を読むのに2時間位かかったかな。

漫画も混ぜられてて、とても読みやすかった。

集中が保てました。

 

この本です。

 

"自分を好きになろう うつな私をごきげんに変えた7つのスイッチ"(岡 映里, 瀧波 ユカリ 著) こちらから無料で読み始められます: http://a.co/0p76ai3

 

やってみる

まず行動します。以下のことをやるぞー!

 

・自分の周りの目につくところを10秒掃除する

・捨てるべきものを捨てる

・週3は筋トレ

・瞑想

・自分を大切にしてから他人を救う

・朝太陽を浴びる

・自分のできなかったことを責めずできたことを褒める

・かっこいい自分になる

テポドンは落ちた

最近ずっと思ってたんだ。

 

早くテポドン落ちないかなあって。

 

全部終わってしまったらいい。

 

 

今は思う。

 

別にどっちだっていい。

 

自分の肯定できる生活や思想やもろもろを送っていれば、そんなのどっちだっていいんだ。

 

 

やりたくないとか、むなしいとか、不幸せだとか、他人が妬ましいとか、そんなものの塊がテポドンなんだと思う。

 

それはもう落ちた。

 

全部リセット。

 

そして生まれた焼け野原。

言い換えれば、自由。

 

設計も工程も、全部好きなように俺が決めるんだ。

 

 

自由はテポドンのあとにある。